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2007年6月14日 (木)

基本内観考(一)

随分昔に仲間が集まって武術のグループができた。

私が呼びかけ人だったのだが、3ヵ月後には15人ほどになった。

当時の私の師も駆けつけ特別に教授していいといってくれたが、なんせ有志だけの無銭会だったので、有料と聞いて離れていくものが続出してしまった。私の説明が悪かったのか?ただ師の専らは套路中心の太極拳と台湾系のこれまた套路中心の形意拳だったので査拳を求むる者や蟷螂拳をと考えている者にとっては不要との考え。しかし、器械は六合刀や二朗槍術を修めていた師にこれは習えないのか?と訊けば武器だけと言うのはダメで、師の主宰する套路を段階に修めて初めて修練させるという。

まったく納得のいくことであるが、他のものは不満を列挙!何故不満なのか?わからなかった。しっかり基本を厳しい師のもとで学ぶことは理があるにも関わらずである。何故?皆自由にやりたかっただけなのである。志の違いを胸に仕舞い込んで暫くは会を続けたがもはや解散は時間の問題となった。

もはや私は一人になったが師の教えを守って修練を続けた。また空手、少林寺拳法にも基本のみでそれ以外はまったく教えなくてよいという約束で短期入門したりしていた。基本のみで十分。只ひたすらそれに明け暮れた。3年という月日が流れた。大学生になっていた私は再び師の元を訪れた。師は私に基本である五行拳をするように命じた。私はそれを披露した。更に刀術と槍術を披露し、師はライトスパーリングを自分とせよと言う。私は師と立会い、すんだ後こう言われた。

「基本はできている、だが技に発展性がない。応用変化を学ばなくてはまだ幼稚なままだ」と。

私は師に問うた「師よ憚りながら質問をさせて頂いてもよろしいですか?」許しを乞い、許されると「応用とは技の複雑化・緻密化をさすものですか?」と

師は「ひたすらに学び、ひたすらに繰り返しなさい。理屈は後だ」と言った。

私はその答を己の修練にあると確信し、ひたすらに修行することに決めた。その旨を師に伝えると師は、只頷いて答えた。

一人修行の時代にある師範にこういわれた「技の持つ本質は己の感性の成長によって変わるものだ」と、またある師範は「内観によって本質の核が見えてくる」と

基本のみを修練するとき答えは「睫毛の先に真意がある」とよく言われた。存在しているのは認識の世界でけして実感がなく、そして途轍もなく近いところにあるというのだ。どうすれば?どのように行なえば?効率よくするには?という教えは一つもなく、ただ己の心のおき方だけを諭すように言われた。無心有心の反復動作。量から質への転換が求められた。私は只それに従っただけにしか過ぎない。

ある師範にはまたこう言われた。

123「答は、伸ばした腕のその掌の一寸先にある」

外壮内観體育中心 蔡興仁

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